2018.06.04 レベルフォーデザインの歴史3「出会いと希望」
レベルフォーデザイン、スタッフは現在13名。
今期はあと2、3名の増員を予定しています。
ブログの目的の一つとして、
私の人柄や考え方、会社の雰囲気や目指すところが
少しでも伝わって、共感してもらえる人に選んでもらいたいな。
と、密かに企てている、レベルフォーデザインの清水啓介です。
こんにちは。
レベルフォーデザインの歴史、第3回は「出会いと希望」。
1984年。すべての大学受験に失敗し、途方にくれる高校3年。
兄の人生の分どころか、自らの人生すら見えません。
大学には行く理由も分からないし。。。
3つ上の姉が、これからはパソコンの時代だよ。
コンピューターの専門学校とかどう?
?パソコンか。悪くないかも。
ゲーム嫌いしゃないし。。。
よし。それで行こう!コンピューターの専門学校!
と、決めた翌日、
ん?だったらデザインの専門学校もあるんじゃない?
書店で調べると、ありました!
しかも、落ちた大阪芸大付属の専門学校。
ここに行くしかない。
進路指導の先生には専門学校?デザイン?
所詮高卒、就職なんてできないぞ。
と、衝撃の一言。今でも忘れません。
若い私は思いました。
「こいつ、絶対に見返してやる!」
あとは両親。
高い入学費も出してもらわなくてはいけません。
悩んでいるところを見かねたのか、
両親は意外にもあっさり、認めてくれました。
専門学校に試験らしい試験はありません。
簡単な実技と筆記の試験はありますが
願書提出でほぼ100%入学決定、はれてデザインの道に進むのです。
1985年。4月、大阪は天王寺。阪和線、美章園駅から程近い
大阪芸術大学付属、大阪美術専門学校に入学。
家賃23,000円、風呂なし。共同の玄関とトイレのアパート「有楽荘」で、
人生初の一人暮らしが始まります。
実家最後の夜の出来事。
初めて、母親の涙を見ました。よほど辛かったのでしょう。
「お母さん、ごめん、ありがとう」とは、言えないまま大阪へ向かいました。
新幹線で2時間30分。車中で涙が止まりませんでした。ドラマみたいに。
泣きながら誓いました。しっかり専門学校で学ぼう。
具体的にはわからないけど、兄の分まで絶対になんとかする。と。
専攻科目はグラフィックデザイン。
広告って景気良くても悪くても無くならないよね。
みたいな軽い感じで選びました。
この時、その仕事がどういうものか、ほとんど分かっていませんでした。
ただ、このグラフィックデザインとの出会いが
大きな分岐点となり、新たな希望となるのです。
これからが本番!と、なるのはまだまだ先の話。
続きは「堕落と奇跡」で。

「お母さん、ありがとう」